【エッセイ】1周110mの島

グアムから少し行ったところに、ジープ島という1周110mしかない小さな島があります。
今日は、そこを訪れた時のことをエッセイ形式で書いてみました。少し長いですが、一生忘れられない体験だったので書き残しておきます。

1周110mの島

ジープ島との出会い

絵本で見た島だ。

一番初めにジープ島の写真を見た時の私の感想である。

東京都の御蔵島には、時期になるとイルカが来る。私はスキューバダイビングとドルフィンスイムをしにその島を訪れていた。
お世話になったダイビングショップで「ジープ島」のチラシを見つけたのはその時だった。

ジープ島はミクロネシア連邦チューク州に属する小さな島で、ラグーンの中にあるためイルカが定住しているらしい。
おそらく、御蔵島に来るイルカ目当ての客を引き込もうという算段だったのだろうが、チラシを見た私は別の魅力に引き込まれた。

その島は、端から端までが写真1枚に収まる大きさだったのだ。
砂浜と数本のヤシの木。
よく児童向けの絵本に書かれている、島の上にヤシの木が生えているだけの単純な絵。
それをそのまま具現化したような島が映っている。

「こんな島が本当にあるの?」

私はその日からジープ島の虜になった。

あの島の風景が何をしても頭から離れなくて、いつの間にか私は御蔵島に行った仲間とジープ島にいく計画を進めていたのである。

いざ、ジープ島へ

調べてみると、ジープ島は交通の便が悪いところにあった。

まずグアムに行く必要がある。そこからトランジットしチューク島という島に行く国内線に乗るのだが、この飛行機が朝の7時頃にグアムを発つため、グアムへはその前についていないといけない。

当時の飛行機の時刻表からいくと、夜中の0時にグアム国際空港に到着し、そこから7時間待つ必要があった。

幸いグアムの空港は夜中も免税店が開いていたため後輩は元気に免税店を見てまわっていたが、私ともう一人は年長者である。ダイビングのことを考えると寝ておきたい。ただ、いざ寝ようと思うとどこを探しても手すりつきの椅子しかない。

横になれないのだ。

さまよったあげく疲れ果てた私たちは、チューク行の便の乗り場付近で椅子に座ったまま盛大に寝てしまい、CAさんに「このゲートの飛行機はそろそろ出るけど乗らなくていいのか」と起こされる始末だった。

ただ、後にジープ島で一緒になったおじさんは、私たちと同じように横になれるところを探し回った結果、意を決して50ドル払ってラウンジに入ったそうだが、韓国人や中国人の団体客が入れ替わり立ち代わりやってきて大きな声でしゃべるので、全く眠れなかったと言っていた。
それに比べればタダで寝ることが出来たので、多少身体が痛くなったとしても私たちの判断は間違えてなかったといえる。

そんなこんなで慌てて飛行機に乗り込んだのだが、グアムからチューク島へ行く飛行機は地元へ帰ったり誰かの家へ遊びに行くのであろうチューク人しか乗っていなかった。

彼らは、好きな席に座るのである。

案の定私の席にも既に先着がいて、機内でのくつろぎモードに入っていた。
なんとなく日本人的な生真面目さが出てしまい、彼女にチケットを見せて「ここは私の席だ」というと、彼女は親切にも本来の自分の席に戻ろうとした。しかし、そこにも別の人が座っている。

その彼もまた自分の席に戻ろうとし、彼の席に座っている人が立ち上がり、またその彼も・・・と言った具合で、近くの人たちが総立ちになってしまったので、私は「ありがとう。大丈夫。」と言って、空いている誰かの席に座った。

前日の寝不足がたたり、私たちは気づいたら寝ており、無事にチューク島に到着した

ほんの3mほどしか距離のないベルトコンベアをまわる荷物をピックアップして、窓もなければ扉も締まらないバスに乗り込んだ。

このバスに乗って、次は港を目指す。

ミクロネシアのチューク州というところは、第二次世界大戦時に前線となった場所だ。
そのため、多くの日本人が滞在していた。彼らは、文明を知らない島の人にモノを教え、コンクリを使って道路を作ったらしい。

ただ、彼らにとってコンクリの道路は必要のないものだったようで、修復のやり方もわからない道路はいたるところがひび割れ、盛り上がり、ガタガタだった。

バスはスピードが出せずに、大きく左右上下に揺れながら、歩行者ほどの速度で港を目指した。

ようやく港につくと、ガイドの柴咲さんという人が迎えに来てくれていた。

これから船でジープ島に移動するから水着に着替えること。この先物を買う場所はないので、滞在分の水やお菓子を港横の売店で買うことを伝えられ、私たちは文明的な生活とおさらばした。

ついに上陸

家を出てから12時間ほどたって、ようやく私たちはジープ島に上陸した。

写真のままの風景がそこにあった。
聞くと、ジープ島は1周110mしかなく、ゆっくり歩いても3分で歩ききってしまうらしい。
「誰がどこにいるかすぐわかりますよ」
とガイドの柴咲さんは笑って言っていた。

到着した私たちはまず施設の案内をしてもらった。
部屋は男女別に分かれており、大きめのバンガローのような建物が2棟建っている。
自家発電の電気も通っており、屋根と窓がしっかりしている普通の平屋だった。
それからキッチンと、みんなで食事をするスペース。
シャワーとトイレがあった。

ジープ島には水と電気が通っていない。
そのため、水は雨水を貯め、電気は自家発電のものを使う。
幸い、1日に一回30分ほどスコールが降るので、水はその時にタンクに貯めることが出来る。
トイレは横にためてある水を汲んで高いところからじゃばじゃばと流す形で流し、シャワーは決まった量の水があてがわれるので、それで体を洗わなければならない。
全てがあって当然と思っている都会っ子は数秒で発狂するような環境だろう。

個人的には思ったより綺麗な環境だと感じた。
海のど真ん中にあるためか虫もいないらしい。

チューク人の少女、ハナエ

島には、柴咲さん以外にチューク人が住んでおり、私たちの身の回りの世話をしてくれる。

年配のおばあさんがご飯を作ってくれ、青年がダイビングまわりやその他の力仕事を担当し、女の子が走り回っていた。
女の子はハナエと言って、毎日聞くたびに年齢が変わる元気な女の子だった。
年齢はその日の気分で変わるらしいので、8歳という日もあれば、6歳という日もあった。
彼女は元々、チューク島の小学校に通っていたらしいが、校長先生に虐待されて学校を辞めたそうだ。チューク人は父親が家庭に留まって家族を養うが、母親は子供を産んだら次の男性を探してまた別の人の子供を産むらしい。
そのため、ハナエの母親はどこで何をしているのか誰も知らないということだった。
ハナエはジープ島で、簡単な算数を教えてもらいながら毎日海で遊んで暮らしていた。
やってくる日本人と話しているうちに覚えたのか、パーフェクトな日本語を使い、コミュニケーションには一切問題がなかった。

滞在しているゲストの中で、私たちのグループが一番ハナエと年齢が近かったからか、彼女はよく私たちのところに遊びに来た。
iphoneを見せてくれ、と言って、アプリを触って遊んだり(もちろん電波はないので見るだけ)
itunesで音楽をかけてくれ、と言って、浜崎あゆみの音楽で踊っていた。
雪やミッキーマウスの写真を見ては、「これは何?」と言い、自分に年が近い男の子が映っている写真は「オトコだ、オトコだ」と騒いでいた。

彼女は、私たちがダイビングに行っている間も日がな一日1周3分の島にいて、
「今日1日何をしてたの?」
と聞くと
「海を見てた」
と答えていた。

都会とは全く違う時間の流れがそこにあった。

彼女は泳ぎがとてもうまかったので、私たちがダイビングから帰ってくるとシュノーケリングに誘ってくれて一緒に海に入った。
島のまわりにはとても豊かなサンゴ礁の森が広がっており、ダイビングをせずとも出会える最高の海がそこにあった。

沈船ダイビング~タイタニックの船へ~

いよいよ、ジープ島でダイビングをする。

ジープ島でのダイビングは沈船ダイブが基本だ
第二次世界大戦中激戦区だったこのあたりの海には、多くの日本船が沈んでいる。
そのため、沈んだ船に潜る「沈船ダイブ」というのが出来るのである。
過去には多くの人を乗せて海を走っていた船に触れることが出来、船底に空いた穴から中を通って甲板まで一気に浮上すると言った三次元的な動きが出来る沈船ダイブは、ロマンと冒険心に溢れた魅力的なダイビング方法だ。

まず潜ったのは、今回の一番の目的だった「富士川丸」という船だった。
この船は戦時下において日本軍の前線に物資を運んでいた貨物船で、祖国に帰ることなく異国の海で撃沈した。
レオナルド・ディカプリオ主演の映画「タイタニック」の撮影に使われたのは、実はこの船である。
映画の冒頭海に沈むタイタニック号にカメラが近づいていって、豪華絢爛な当時の時代に巻き戻るシーンがあるが、そのシーンを撮影したのがこの「富士川丸」だった。

機材の準備をしてボートに乗り、少し紺色の強い海に飛び込むと、足元に大きな船の影が見えた。
ガイドの柴咲さんについて深度を下げる。
柴咲さんはタイタニックのカメラワークと同じルートで案内をしてくれ、まさに映画のシーンを脳内で再現しながら私は海へと潜っていった。
監督のジェームズ・キャメロンもロケで潜ったというから、彼もまた同じ景色を見ていたということになる。

船の状態は思ったより綺麗で、廊下や部屋の間取りがしっかりと残っていた。
当時の日本兵が使っていたと思われるお弁当箱や割れたワイングラス、薬箱、昔の社名をTOYOという現TOTOの洗面器など、時間を超えて残されたものがそこにはあった。

他の船では、船底の格納庫にしまわれたままの零戦を見た。
その船は甲板にかなりの爆撃を受けて沈んでいたため、甲板に空いた大きな穴から日の光が差し込み零戦を細く照らしていた。
海の底で静かに時間の流れに身を任せる零戦は私でさえ窮屈に感じるほどコックピットが小さく、この大きさで空を飛び、敵に突っ込んでいったなどとは信じられなかった。

数日をかけて潜ったダイビングは、砂地のポイント一回を除いて全て沈船だった。
海の状況が良ければチューク州を囲んでいるサンゴ礁の環礁を抜けて外海に出た後、トラック環礁というまた別の環礁に行くことも出来たのだが、外海の波が高く船が出せず、行くことが出来なかった。
トラック環礁の海はチュークとはまた違う青色をしているようで、機会があれば潜りたかったのだが残念だった。

それでも、青に近い紺色のような色をしている海や、ブルーハワイのシロップのような青、色とりどりのサンゴ礁にたくさんの亜熱帯の魚という風に、とても豊かな南の海を見ることが出来た。

運が良いとイルカに出会えるらしいが、私は会うことが出来なかった。
ただ、早朝ダイブに行ったおじさん(グアムの空港でラウンジ代50ドルを払ったその人である)は、海の中でカメラを一生懸命いじっている時にふと視線を感じて振り返ると、イルカが3匹「なにをしてんのさ?」という感じで並んでこっちを見ていたらしい。

夜のとばり

ダイビングが終わると、ジープ島に夜が訪れる。

タンクに貯めた雨水で体を洗うため、日が暮れてからのシャワーは寒いので、迫る夕闇の中みんなで急いで交代でシャワーを浴びる。
1人が使える水の量は決まっているので少しコツが必要で、まず頭から一杯浴びて全身を濡らす。
全身が濡れたらそのままシャンプーとボディソープを泡立てて全身を洗い、頭から3,4回水を流し全ての泡を流し終える。
コンディショナーをする水の余裕はないので、とりあえず海水を流すような形になる。

お風呂が終わると夕食の時間だ。
チューク人のおばあちゃんがご飯を作ってくれるので、みんなで囲んで食べる。
ご飯は意外にも「なんちゃって肉じゃが風」や「なんちゃってカレーライス」といった、日本人好みの味付けに仕上がっていた。
歴代のゲストが、おばあちゃんに教え込んで作れるようになったらしい。

ご飯を食べながらみんなで色々な話をした。
ラウンジ50ドルおじさんはお酒を大量に持ち込んでおり、私たちにも気前よく飲ませてくれた。
ある日の夜には、チューク島から小学校の先生をしているという日本人の青年が遊びに来て、一緒にご飯を食べた。

彼は海外青年協力隊の元チューク島に教育を普及さえるという大変高い志を持って現地に来ている方で、面白い話をたくさん聞いた。

チューク人は犬を食べるので、飼われている犬はペットではなく食用だということ。
そのため、唯一このジープ島にいる犬たちだけが、チューク州の中で命を保証された存在であること。
以前自分がかわいがっていた近所の犬が、ある日を境に姿が見えなくなり、子供がその犬の首輪を指にひっかけてまわしながら歩いていたので「あの犬はどこに行った?」と聞いたら「食ったよ」と笑顔で返されたこと。
市場では豚が生きたまま売られており、買うとその場で首を落としてさばいてくれるのだが、豚の断末魔は女性の叫び声に似ていて嫌な気分になること。

お酒を飲みながらたくさんのことを話してくれた。

何よりも面白かったのは、教育の普及という高い志を持っていた彼は、チューク人の生活を知るにつれて「教育は必要ない」という結論に達していたことだった。
島にいる同世代のうち大学に行くのはせいぜい一人で大半が島で一生を終えるチューク人にとって、学問とは足し算引き算で十分であるというのが彼の意見であった。
「そもそも、10を超える物の取引はまれにしか発生しないし、10以下の足し算引き算であれば、マンゴーを並べて数えておけば計算出来るからね。ちなみに彼らは、暗算は一切できないんだ。」
そう言って笑った。

テレビや娯楽がない分、星空の下で酒を飲んで語らうというシンプルな時間が流れていて、とても濃密で充実した時間だった。

宇宙を見ながら眠る

ジープ島で眠る方法は2つある。
1つは前に説明した男女別の平屋で眠る方法。
もう1つが、浜辺にサマーベットと掛布団を待ちだして、満点の星空の下で眠る方法だ。

私たちは迷わず、満点の星空の下で眠る方法を取った。
「夜に目が覚めて星空が見えなかったら、雲が発生してスコールがくるということだから。そしたら家の中に避難してください」
ガイドの柴咲さんにそう言われて、横になった。

自家発電の電気が消えるとあたりは真っ暗になる。
まわりに島はないので、本当の意味での夜が訪れる。こういう夜を、私は初めて経験した。
そして、この暗さで見る星の量と言ったら・・・。

「宇宙が見える」

本当に心の底からそう思った。
輝く十字星、揺らめく天の川、数分に一回見える流れ星。
文字通り満天の星空がそこにあった。
おそらくこれ以上の星空を見ることはこの先一生ないのではないか。そう思う夜空だった。

波と風の音がごうごうとしていたが、不思議とよく眠れた。
途中、寒くなったのかジープ島で飼っている犬が布団にもぐりこんできて一緒に眠り、朝を迎えた。

ご飯を奢ってくれた吉田さん

ジープ島から帰る日が来た。

ハナエは最後までお見送りをしてくれて、一緒に写真を撮った。
「手紙、送るね」
と私が言うと
「文字読めないから、いらない」
というなんともそっけない返事だったが、ジープ島のブログを見ると彼女は元気そうなので安心している。

島を出てチューク島に到着すると、飛行機の時間までホテルを使わせてもらえることになった。
久しぶりにシャワーで体を流して、レストランにご飯を食べに行った。

レストランには吉田さんという日本人がいて、ゲストと一緒にご飯を食べるということだった。
何を隠そう、彼がジープ島のオーナーである。
その昔広告代理店に勤めていた彼は、ひょんなことからミクロネシア連邦に出入りするようになり、仲良くなったチューク人に
「何かやる」
と言われて
「あの島をくれ」
と言ったのがジープ島の始まりだ。

私たちは社会人になってまだ数年のひよっこで手持ちのお金がなく、ご飯代は吉田さんがご馳走してくれた。
あの時はありがとうございます。
最後まで本当に楽しい旅でした。

ジープ島とはなんなのか

ジープ島から帰ってきて数年がたつ。

今でもあの時のことを時々思い出す。
ジープ島での経験は、確実に私の中に生きている。

20代の前半にあの島を訪れたことは、私の価値観を大きく変えた。
社会に出て、お金を稼ぐ難しさを感じていたあの頃、どこかで「学歴」や「年収」や「地位」といったものでまわりを見るようになっている自分がいた。
でも、ジープ島にそんなものはない。そんなものはなくても、心が満たされて、生きていると思える瞬間がそこにはあった。

都会の中でふわふわと流されていってしまいそうだった私の価値観を、しっかりと根差してくれたのがジープ島だったのだと思う。
本当に大事なことはそんな多くない、ということを体験出来たことはとても大きなことだった。

この記事を読んでジープ島に興味をもった方がいたら、ぜひ時間を作ってあの島を訪れてほしいと思う。
また、ネットで調べるだけでも本当にたくさんの素敵な写真があるので、ぜひ見てほしい。

私もまたいつか、あの海に潜り、宇宙を見上げたい。
その気持ちが日々の活力になっている。